子供の頃、開眼した仏像を「おもちゃ、模型だから」と教えた手合い

開眼(かいげん)とは、御霊が入っている仏像のこと。

手合いである伯父は、御霊入りの仏像を「おもちゃだから」と、当時「御霊入り、開眼など」よくわからなかった私に、よく何度も教えてくれていた。

開眼した仏像(御霊入り)の仏様を「プラモデルとかといっしょ。」「おもちゃといっしょ」とえびす顔でにこにことした笑顔で。

開眼していない仏像であれば、仏様の形をした像として、美術品や像のように言うこともあるかと思うが、開眼している御霊いりの仏像と知っていながら言うのは、明らかに邪な証拠だ。

海

親類が集まっているときのことである。今となれば親族会議のようなものだったのだろう。

私が小学生か中学生の頃、私の進路、就職先、将来についての話になっている時などは、父と母は親類と真剣に話して、親類の話を真剣に聞いていたが、手合いである伯父と伯母が主導していたのだろうが、大学に入ったら何でも言うことを聞くと良い、(同じ学生、同級生などの言うことを何でも聞くこと!)と言っていた。

しばらく何度も父と母を通して、なぜかわからないが「大学に行ったら同級生の言うことを何でも聞くと大丈夫」ということを聞かされていた。「何でも」というところが強調されていた。

普通に考えると、なぜ、同級生の言うことを何でも、つまり無条件に聞かなければならないのかわからない。はずだ。いいわけがない。

「大学に入ったら何でも言うこと聞けば良い、大学に行ったら同級生の言うことを何でも聞けば、大丈夫だ、大学に行ったら何でも言うことを聞かなければいけない、何とかなる。」

私が大学生の頃、実家に帰省している時期、オーバである伯父が伯父の妻と東京からやって来て、私に、オーバの仲間にならなければ、大学中退してもらうことになる、と言っていた。

おじさん「入る?」

私は「入らない」と答えた。

ありえない「何でも言うこと聞く」

最近、単に「同級生の言うことならばなんでも言うことを聞く」ことになっているよと、私のことを言っている父の言葉と母の様子があった。

誰が「同級生の言うことなら何でも言うことを聞く」と言っているかわからないが、同級生の言うことならば何でも言うことを聞くわけがない。

何でも言うことを聞くように、と教えて、言うとおりにすれば、どうにでも、なんとでもできるという訳だが、

誰も「同級生の言うことなら何でも言うことを聞く」なんて考えられないだろう。

上辺だけにしろ何でも(できるだけ)言うことを聞いておもしろおかしく過ごしていた。

大学に入学するまで、大学生になったら学生時代は周囲の同級生たちに合わせて、できるだけ楽しく面白く明るく過ごすべきだ、という考えになっており、できるだけ肯定的に何でも前向きに軽く考えて、基本的に「そうだね」と優しく明るく過ごすように対応するように心がけていた。

そして、○○君は何でも言うこと聞かないといけないんだよね、誰かに真剣そうに言われた時、

私は正気に戻った。「何か、おかしい。」

浮かれているような形と明るさ、楽さとやさしさの映像のような思い(想念)が飛んだ。
おじさんと同じオーバ(手合い)の大学の同級生が、強い気持ちでいた。完全に不意を突かれた。不意打ちのような思い、言葉。

私は基本的に「そうだね」と優しく明るく楽な映像が見えるような思い(想念)でいるが、実は仕組まれたこと?と一瞬思ったが、

否定するのは困難を極めるようだった。

「今のまま、何でも言うことを聞いてくれるような人とでないと一緒にいられない、その方がこっちも都合いい。そうでないと怖い。」といつも集まって遊んでいるグループの仲間たちの2、3人が言った。

今となれば、利己主義極まる無慈悲な言葉は、オーバの旅籠の婆さん達の憑依によるものだとわかる。旅籠の婆さん達の念がまずあり、それに向けて考えさせ、言わせたのだとわかる。

なぜならば、原因、経過、結果の流れから、人間の発想ではありえないからだ。可哀想な目にあっている仲良くしている同級生に、自分を失くして何でも言うことを聞いて明るく楽しそうにしている方が私達も価値観や就職活動において都合が良い、なんで発想はまずないからだ。その方が都合が良いという発想は、サイコパス(低級霊+人の霊魂)かオーバ達(悪魔+人の霊魂)でしかありえない。

当時の私は、何でも「そうだね」と肯定的に優しく明るくて、浮かれていて、楽な映像が見えるような思い(想念)でいることにした。

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