ノンフィクション スピリチュアル・バイオレンス

寝起きに考え事をしていたら人が変わった、眠っている最中に人が変わった、など近所の光嫌の仕業である場合がある。

気の遠くなるような回数言ってもわからない奴だから、と決め込んで接してくる光嫌(平和、綺麗、明るさ、行動とうたいながら、言いたいことは言った方がよい等、荒い波動の心にして軍国主義へと、実は「戦争しながらの衰退」の世界になることを促している人達を「光嫌」と名付けた。)

光嫌たちは、思い上がっているから、決して関わりたくない、いやな思いをして自分が変わってしまう、何を言ってもどうにもならない。という感覚が当たり前である。

光嫌たちの「気の遠くなるような回数しないといけない」の元は、法華経のお釈迦さまの教えにある。
法華経のその教えを知ることで、元を断つ方向に進める、という対処になる。

光嫌たちは、とにかく思い上がっている。
自分たち以外は「人」ではなくて黒いゴミのように思っていて、利用するために、おだてて持ち上げ、羨望させ怖がらせ、尊大な存在に見えるようにマイナスの努力をするものである。
「虎の威を借りる狐」の虎として利用するため、光嫌が操作する王として(傀儡国家のように)、盾として使うために、そうするのだ。

梅の花にミツバチ

解決法のいくつかとして

光嫌たちの手法には楽させようとするというのがあるから、楽しようとしないというのがある。なんでも楽な方へ楽な方へと、なんでも雰囲気や楽な方に流されて、流されるままにしようとする。その方が自分たちの言葉や思いで操りやすいからだ。
そして、それとは反対に、とにかく嫌な思いをさせる。我慢させるというのがある。光嫌たちは、周囲には自分たちの集まりは、理想郷のようなもので自由で明るくて軽やかで、全てが理想のように、と思わせてはいるが、実のところ、ひどい地獄であって、我慢させられているので、念は強い。

その強い念の力で、人を嫌な気持ちにさせるため、(そのための念を強くするために内部の方針として、そうしているのだろう。実のところ会の奴隷と変わらない。)

とにかく何かを我慢しているので、念は強い。

だから、あなたは、小我(わがまま)や何かに流されてしまっての動機で、我慢することをしない方が良い。闇雲に努力する、我慢することは美徳ではない。

目的、動機によるが我慢しすぎるのは良くない。

相手の不幸のために、わがままな動機で、辛い思いを望むのは、辛い思いをさせたい霊を呼ぶのと同じで、自分たちの仲間にしようとする光嫌たちの波長とあってしまうことがある。

楽をしてはいけない楽をさせようとする反面、我慢しなくてもよい我慢をさせようとするところがある。

自作自演の手法と正当化について(光嫌の告白のように)

相手が本当に心の底から嫌がる辛い思い(心がなくなってしまう)を自分で作って、相手に自分の思いを憑依させる。すると、相手が自分と同じ思いになる。すると自分たちに相談するしかなくなる、そうすれば入会するだろう。
そのために自分は、大変辛い思いをしている。相手が、これまでの心を捨てて(心ない物質主義的な争いの世界を作って、そこにウソの救いの手を差し伸べるという行動を、共に繰り返していくことを強制させられる会に、入会させること)自分達の会に入信しなければいけないような、辛い思いを作っているのだから、自分は辛い思いをしている。とても辛い思いをしている。そのような努力をしている。血と汗と涙の結晶だ。とても辛い思いをしている。
だから、文句など言われる筋合いはない。つらい思いを自分もしているのだ。自分たちは努力している。それに、思うのは自由のはずだ。(以上、光嫌の告白のように)

心がない、気持ちが空っぽ甚だしい、異空間の感覚である。

スピリチュアル・バイオレンス。学校、職場をやめさせる、いじめ、嫌がらせをやめない光嫌たち。

あなたたちの会員は、どんなに悪いことをしているのか分かっているの?という内容のことを、親切丁寧に、思いやりをもって、温かい心で伝えてあげても、光嫌たちは、そのことは計算済み。「それは分かっているが、やめるといじめられる。商売ができなくなる。追い込まれてしまう。」と周囲にそのことを話し、結局、やめない。

こういう場合は、こう言って乗り切る。そう言われてから自分の信仰生活は始まる、と決めている。

以上、暴力を振るって喜んでいるような感覚と変わらないスピリチュアル・バイオレンスをしている光嫌たちについての真実の記事(ノンフィクション)でした。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする