自分を良く思わせながらも、常に誰かを妬んでいるのは、邪な者だ。

クセンミという所にいた時、随分しつこい争いがあった。仏陀は弟子たちに言われた。

「お前たちは争ってはならない。争いで争いをなくそうとしても、遂にやむ時はない。ただ忍だけが争いをやめる。それゆえに忍を尊重しなければならない。」

聖母マリア像

マザー・テレサも言っているが、やり返さないこと。許すことが大切だ。

一見良さそうに見える仏教の教えを学んでいる人達でも、いろんな人がいる。

何十年厳しい修行をしようが、位が高かろうがロクでもない者はロクでもない。どんな高価なもの、希少なものを身につけていても、持っていたとしても、悪いやつは悪いやつのままだ。
信者や檀家の数が多いといえども、人気があるように見えても邪な者は邪である。

仏教の肩書(イメージ)+相手があなたに見せている想念(雰囲気・思い)

「その中には非法を説くものがある。尊重してはいけない。しかし正しく法を説くものもいる、それは尊重しなければならない。」

法とは、こういう場合はこうした方が良い、人生訓、生き方、心にとどめておくこと、「世の中には嘘、まやかし、ごまかしがまかり通っているが、本当はこうした方が良いこと。」というようなこと。自然の法則、霊的真理、物より心を尊重する生き方においての法則のようなもの。
法律で裁けない残酷な手法で心を喪失させている
ダイバ達の真実は、「どれだけ、可哀そうなことをしているか。残酷で狂愚なほど位があがる」と言える。
「そして凶暴な者は残虐なことを好みますが、沙門は忍を守り功徳をつみます。しかし、狂愚のものはそれを軽蔑して、反って残酷な人間を尊敬します。」
(釈迦の息子ラゴラの言葉の一部より)
邪な者は、常に正しいものを妬(ねた)む
「忠1)真心、誠意の人と佞(ねい)2)佞とは、口先がうまかったり、心がひねくれていたり、正常ではない人。また、愛想が良かったり、人あたりがよく、才能がある人など。とは仲は良くない、邪は常に正を嫉(ねた)む。」
見た目は寡黙で真面目そうだが、本当は、おしゃべりで話をするのが好きなダイバモドキを思い出した。
お釈迦様の教えに「静黙を楽しんで多言を好まないことだ。」とあった。
続いて、お釈迦様が弟子たちに教えた六不退転から
  • 身常(つね)に慈を行じて、衆生を害しないこと
  • 口に仁慈をのべ、悪言をのべないこと
  • 意に慈心を念じて、他を損害しないこと

お釈迦様は、思いやり、慈愛のある行動・言葉・思いを教えているが、正直、誰にでもできることだ。現実に、多くの善良なる人達はできているはずだ。

しかし、ダイバたちは目立って六不退転の教えに反したことをしながら、六不退転の教えに反した教えを広めている。反対のことをすれば日本をはじめ、世界中の人たちが不幸になる。

邪な者を遠ざける方法
一、身常(つね)に慈を行じて、衆生を害しないこと
一、口に仁慈をのべ、悪言をのべないこと
一、意に慈心を念じて、他を損害しないこと
地域の集まりなど

大味(おおあじ)とダイバ達は、最初から物事を決めてきてから、相談の場にくる。
すると、ナザレでは畑を多く所有している者が何でも決められることになっている、所有している畑の大きさの順番に言うことを聞くようになっている、として大味(おおあじ)は場を仕切り出す。

そして、集まった人達をただ気楽にダラダラとさせる。大味(おおあじ)は、返事だけをさせる。

「阿諛(あゆ)者3)阿諛(あゆ)とは、顔色を見て相手の気に入るように振る舞ったり、相手の気に入るようなこと言ったりすることの言に動かされてはダメです。わざわざ苦行する必要はありませんが、心を楽させたり、甘えさせたりせず正覚(しょうがく)を得るよう静かな心が必要です。」(お釈迦様の言葉より)

心を楽にさせる

怠けさせ、堕落させ、考えさせない。

そして、思い通りに支配する。言いなりにさせるひとつの手法だ。

「楽でいいでしょう。」適当に返事をしていたら、いつの間にか自分で考えられなくなり、言いなりに。考えないのは楽という「心の楽にさせる」を悪用する手法。

脚注   [ + ]

1. 真心、誠意の人
2. 佞とは、口先がうまかったり、心がひねくれていたり、正常ではない人。また、愛想が良かったり、人あたりがよく、才能がある人など。
3. 阿諛(あゆ)とは、顔色を見て相手の気に入るように振る舞ったり、相手の気に入るようなこと言ったりすること

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする