自力本願、たとえば子供の心になって、自分で考える

1990年代、最終戦争(ハルマゲドン)、戦争に進むことをのぞみ、行動し、言葉にさえしている手合いは、「どうせ何もできない」と通り魔かスナイパーのように、すれ違いざま、人がたくさん集まるところなどで、知らない人を口撃をします。

その手合いの一団は誰かをいじめて、そのイジメが広まるように仕向けます。

いじめられていれば、救いが欲しくなるだろう。
仲間外れになっていれば、寂しいだろう。

手合いの一団の誰かが相談にのる、というわけです。

フラストレーションをためさせ、争いの気持ちでいさせながら、おとなしくさせられると豪語しています。
5・15事件から2・26事件への流れの発端となった全国の若者の不満の爆発は、その手合いによるものでしょう。

今まで生きてきて、見聞きしてきて、自分の思考・記憶・意識の中では、だいたいそんなところがあるはず。予測はついている、と無意識にでも知っているはずで、つまり、そこまではっきり細かいところまでわからなくとも、ある程度、想像はできているという物事は、計り知れないほど多いはずです。

しかし、新しいことを映像、文字、実際に五感で感じて、はっきり分かったり、知らないことを知った場合、本来、喜びの方が大きいはずです。学ぶことができた、知ることができた、と。

しかし、それにもかかわらず、新しい経験、体験をしたことで、理由のないショックを受けて、嫌になる。そのことも自分をも否定してしまう、つまりは、反対の想念です。

ショックの受け方というのが、極端にいじけたように自己軽蔑をして、自分で自分をないものにしているような、光の想念を受けて自分がなくなるように弱ってしまったという想念なのですが、たちが悪くなると、「そのことについて考えて、これは自分だと結論づける思考」の想念を入れてくる場合があります。
その人になりきって考えて、結論付けて、自分の考えだと錯覚させるのです。

錯覚というところでわかったでしょうか。そうです。狐は「虎の威を借り、虎を騙し、自分を周囲に虎に見せる」、アケビは「アケビが絡みつく近くの木をアケビに見せる」、寄らば大樹の陰にいる人は「自分を大樹に見せる」

自分たちがしていることが、公に明らかになっては困る!分からないようにしなければ!隠さなければ!
その一団の念は、国会会期中あたり、わかりくくなります。

公に明らかにすることに反対する強い想念は、平和に反対する想念と共にパワーアップ!

その人の思い(人格)を洗って、新しい思い(一団の会員が念じた思い)を入れる手法によるものです。

もともと、自分で作った思いを相手にうつして、相手を思い通りに動かしたい。全人格否定、悪いことですよね。
その人のことを「思うこと」で、自分が作った思いをその人にうつしたいのですから、 分からないようにするに決まっています。
わかるようにしている時は、相談に来てほしいのでしょうか。
「顔見えるだろう、誰かわかるだろう、こういうやり方をしているんだよ、何もできないだろう、相談に来るしかないんだ」というわけです。

相談に行くと、自作自演の術をある程度は解きますが、月々の支払いがでてきます。自作自演の種明かしをされて「何でも従え、お前もやれ」とされます。毎日、毎月、何か機関紙、機関誌を読まされることになり、カースト制度のような壁のある身分制度の中で、争いの種をまいて、通り魔か銃を乱射するように無差別に誰かを言葉で攻撃して、いじめ・仲間はずれを積極的に作り、「いきなり笑わせた後、かわいそうなふりをして、すり寄ってから威を借りる」など、そのようなことを繰り返すことを強要されるのです。

相談に行って、入信したり購読するのを断ると、当然、嫌がらせはエスカレートします。断られたんだから当然だと、周囲に言いながらです。 「わかるだろう」と情に流そうというわけです。

ある王様は、供養のためやら悟りが得たいがために、身分の高い家来や城などを仏様に渡したとしましょう。しかし、自分の身を犠牲にして明かりを灯した者の方が尊いと仏様は言った、と釈迦は説いたそうです。

これをあげるから何とかしてくれというのは、他力本願でしょう。それに私は、こういうのがあると思います。自分の肉体を傷つけて痛みを感じて我慢することで、悟りが得られたり供養になるということはないでしょう。

悟りや供養とは、物質的なものによるものではない。自分を人のために役立てるという動機、思いによる実践でしょう。

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