外はきれいに見せて、内は穢れている。類は同一ではない。

ターゲットの家の隣に住む老夫婦。応対するときには、よく腰を低くして朗らかな笑顔を見せてくれるが、ターゲットやターゲットの家族にわからないように、近くのスーパーマーケットなどでターゲットについて何か言いふらして、様子を見ている。

コモドオオトカゲ

噛みついた獲物に、自分の毒が回って獲物が弱るのを、近くでこっそり見ているコモドオオトカゲのようだ。

自作自演。ターゲットを悩ませて、困らせてから、相談に乗って入信させる。
社会問題となった団体の手法を世間が知ることになったが、現在も変わっていないといえる。ただ問題が表面化しないようにしているだけだろう。

恐るべき貪欲、怒り、愚痴を煽って、世界中を不幸に

恐るべき貪欲、怒り、愚痴を煽って、世界中を不幸にしておけばいいのだという言葉と行動と思念で、忙しいダイダ1)ダイダとは、釈迦の弟子で王子を教化した後、王子に王を殺させたり、民衆受けの良いような厳しくわかりやすい戒律を作って人気を取って、釈迦にとって代わろうとした人物。ダイダのような手合いだから「ダイダ」としている。。ダイダたちは、自分たちは心がきれいで「信仰があります」と言えば、何でもしてよい先生だ、と周囲に思い込ませている。自分たちの言うことは聞かなくてはならないとしている。

心がきれいなわけがない。何でもしてよいわけがない。

ダイダのいうことは、聞いてはいけない。

善いの反対の悪を善いとしている邪なダイバモドキ

「家業は、ナザレ2)たとえとしてナザレの町で一番大きい地場産業の建設会社だ。自分達は何をやってもいいんだ。」(しかも、俺はナザレをあげて宣伝している特産品の生産者だ。)

ひがみ、妬み、そねみ、支配心から、大学を中退させたり、廃業させたり、学生が勉強できないようにしていたダイバモドキ。ターゲットが大学を中退したり、廃業したり、ダイバモドキたちの言うところによる努力による願いが、いくつか叶った

間違った動機と、間違った方向への努力で、邪なことをしたのだ。

何をやってもいいわけがない。誰でもわかる。悪を徳にしているような悪徳の手合いだ。

東日本大震災を経て、ダイバモドキたちは自らの行いと心持ちを反省して、もう邪な心はなくなっていると思っていたが、変わっていない。現在進行形だ。

釈迦は、沙門3)宗教などにおける信者、修行する者、教えや信仰を大切にして生きている者など(しゃもん)には四つの種類がある。行道殊勝の沙門、善く道義を説く沙門、道によって生活する沙門、道を穢す沙門がいると言った。

ダイバたちのような者たちを、1兆光年に値する歩を譲って、宗教の在家の信者とすると、ダイバたちは全員、24時間365日、道を穢す沙門だ。
さらに、100億光年の歩みを譲って、ダイバたちを4つの道の沙門に当てはめてみる。

ダイバたちの場合

  1. 行道殊勝の沙門
    自分たちの悪い教えを貫き通して「勝った」と道を行く。反対側から歩いてきて、すれ違いざまに肩をぶつけたりする。
  2. 善く道義を説く沙門
    場にそぐわない、中身がない、反対の道義を教える。大声や罵る言葉などで相手を驚かせ、傷つけたあと、相手の機嫌を取りつつ、相手がわかっていることや、相手にとっていらないことをわざわざ教えることを何度も繰り返す。
  3. 道によって生活する沙門
    機関誌を定期購読させて、やめられないようにしている。新聞や雑誌の購読をやめさせない。議員になって報酬を得て、人々を比較・差別の不幸道に陥らせる。悪道に依存している。
  4. 道を穢す沙門
    だまされていないあなたはダイバたちは「道を穢している」とわかる。お釈迦様(仏陀)の正法、日蓮の教えにも反している。※ダイバ達に騙されていない人、騙されにくい人は、ターゲットにされやすいから気楽ではいられない。

となる。

「釈迦」にあった一部から

「同じく沙門と言っても、真あり、偽あり、善あり、悪ありで同一とは言えない。
不善なるものは賢なる者をそしりもする。」

「苗中生ずる草のようなものである。世には外が美しく、内が穢れているものが少なくない。」

「外は清白を装うが、内は穢れていて欲望に燃え、虚偽で、誠実なところのないものだ」

参考文献:釈迦 (岩波文庫) [ 武者小路実篤 ]

薄水色の雰囲気、平面的な白っぽく黄色っぽい明るい光の雰囲気、「信仰がある」、「理由のない雰囲気」、「何となく思った」、に騙されないようにしたい。

ダイバ達は、自分で「想像した不幸な思い」を相手を思うことによってうつす(憑依、生き霊、呪い)のは、ダイバ達の大得意とするところだから、あなたは、あなた自身を見失わないでほしい。

自分の気持ち・思いに対する違和感、理由のない思い・思考は、少し時間が経ってから、自分で思おうと思っても思えない・考えられないところなどから、無意識の領域に、他者の思いが入ったと確信できる。

また、自分の思いや考えに対して、「極端に悲惨な思いは何?」「嫌な思いは何?」「自分の反対の思いは何?」などと悩むなどのことから(自分の思考、思いならば迷わない。違和感がない。悩まない。)、悲惨な思考・思いは、自分のものではない、自分の意識のなかの無意識の部分に入り込んだ他者の想念だ(他人の思い・思考が自分にうつった)ということが分かる。

脚注   [ + ]

1. ダイダとは、釈迦の弟子で王子を教化した後、王子に王を殺させたり、民衆受けの良いような厳しくわかりやすい戒律を作って人気を取って、釈迦にとって代わろうとした人物。ダイダのような手合いだから「ダイダ」としている。
2. たとえとしてナザレの町
3. 宗教などにおける信者、修行する者、教えや信仰を大切にして生きている者など

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